2025年3月歌舞伎座夜の部 仮名手本忠臣蔵 五・六段目、七段目、十一段目
Bプロ、仁左衛門の由良之助、勘九郎の勘平、七之助のお軽、松也の平右衛門。
五・六段目はぜひみておくべき名品である。勘九郎の勘平がいい。体のキレ、声の調子がすばらしい。きっちりと型にはまって、しかも心理を存分に表現している。浅葱幕がパラリと落ちて居着いている姿がまず良い。笠をとって見上げる形も美しい。「卒爾ながら火をひとつ…」と声をかけて、やり取りをするうちにお互いの正体が知れる。「絶えて久しき対面かな」といいう竹本になる。ここのところで、暗い田舎の山道の、なんということもない情景から世界がぐっと広がって、目の前のごくふつうに見えた猟師と侍が大きな歴史物語の登場人物になる。スケールが一気に変わるさまでまず感動した。
父親が出て五十両の金をおし頂くと、稲むらから手が出て斧定九郎があらわれる。隼人の定九郎は美しいが手順を追っている感じであまりおもしろくない。演目の紹介や講談や落語の「中村仲蔵」でさんざん期待値が上がっている役だから、難しいだろうと思う。勘平が出て仕留めた獲物を探す。このところからの勘九郎の動きが良い。火縄をぐるぐると回しながら花道から本舞台へ行き、松の木にぶつかる。その拍子に火を消してしまう。おかしいな、と思って手で触ってそれを確かめる。ひとつひとつの手順が折り目正しく、なおかつ自然に体に入っている。銃を置き縄を用意して、足首に結ぶ。引っ張るが重くて動かない。今度は近づいて上に持ち上げるとすっと上がる。これはおかしい。手で探っていって足首を掴む。足のかたちを触る。これは人間だ、と気づいて心臓が跳ね上がる。驚きと、とんだことをしてしまった、という焦り。心の動きがまっすぐ伝わってくる。薬はないかと探して、懐中から金の入った財布を見つける。一旦花道に行って、いや、あの金があれば、と思い直して戻る。すぐに取って立ち去りたいが紐がついていて引っ張られる。刀の小口で切って花道に行く。足ががくがくしてまっすぐに歩けない。なんとか自分を正当化して、ようやく逃げるように花道を去っていく。
人を撃ってしまって、故意ではないとしても殺人である。さらに金を盗んだら強盗殺人で罪の重さはいや増す。それはわかっている。しかし、自分には仇討ちという大義があって、その大義のために金がいる。大義のためだから仕方がない。ここで人を殺してしまってその相手がちょうど自分に必要な金額を持っていたということは運命なのだ。自分は悪くない、と正当化しながら、その罪と運命を自分のものとして受け止めるだけの覚悟はない。しょせんその場しのぎで自分に甘い男なのだ。その甘さ、だらしなさが、花道で足をがくがくさせている勘九郎から劇場中に向けて発散される。さっきまであれほど焦っていたではないか。運命だとしてもなぜそうすぐに流されることができる?
うって変わって六段目で花道から出てくる勘平は堂々としている。茶屋の女将と使用人を無視してゆっくりと足を洗い、着物を替えて、家の中心に端座する。失敗したのは義母おかやにあの財布を見られたことだけだ。それも「なんでもございません」と言って、一応誤魔化すことができただろう。一家の主人として、このあと仇討ちに加わる英雄の一人として悠然とお才とやりとりする。魁春のお才と松之助の源六が味わいがあって良い。暗転するのはそのお才が、昨夜親父さんに貸したのはこれと同じ縞の、と言って財布を出すところだ。ここから、勘平は自分の甘えのツケを一気に払わされることになる。梅花の母おかやが責める。不破と千崎が来る。「色に耽ったばっかりに」「天より我に与うる金と」「いすかの嘴と食い違い」など名台詞の述懐が続く。勘九郎の勘平はどのセリフもまさしくそれしかないという調子でしゃべりだしながら、なおかつその音の高低のなかに個性があった。
父、母、勘平、おかる、ひとりひとりに物語があって、名作だと思う。「そういうもの」なのだが不思議なポイントとしては、「狩人の女房がお駕籠でもあるめぇじゃあねぇか」という江戸弁が上方ことばのなかに混ざることや、父の死因も確認しないまま一方は責め立て、一方は自害して、あとになってから「早まったことをいたしたなぁ」などというところ。しかしそうしたツッコミ目線はまったく不要で、古典名作の名演であった。
「七段目」は七之助のおかるが美しい。ただセリフがちょっとぎゃんぎゃんするところがあって、見た目の可憐さとあわないようだった。こわいこわいと言いながら梯子を降りつつ、最後のところを飛び降りるとあまりにも身軽なので、「別にこわくなかったでしょ」と思ってしまう。松也の平右衛門はお行儀良く演じながら、声を潰してしまっていて惜しい。仁左衛門の由良之助はさすがの座頭の風格。遊蕩三昧の方よりも地のしっかりした方が自分らしさに近いのだろうと感じさせる。なぜかわからないが、着物を着替えて平右衛門とおかるを止めに再び現れたところから、声に精彩を欠いた。
数年前に玉三郎のおかる、仁左衛門の平右衛門でこの七段目を見たときには、なんにも知らずに勘平を思い続けるおかると、その妹をあわれに思いながらも真実を告げなくてはならない平右衛門のやり取りに滂沱の涙を流したが、今回はそこまでの感動を得ることができなかった。それだけ玉三郎と仁左衛門が名優だということなのだろう。そのときはたまたまひと席だけ空いていた2階上手側の桟敷席で知らない人と一緒に座り、あまりにも泣いていたのでその方に心配されてしまったのだった。
今回の席はクレジットカードの先行予約で、自分では選んでいないのだが、花道の下手側、いわゆるドブという席の後方寄りで、これがよかった。勘九郎の勘平が大切に運ぶ火縄の火口に本当に火がついているのも見えたし、七段目の力也と由良之助、おかると平右衛門など、花道ごしの本舞台を立定的な構造として見ることができた。
「十一段目」は雪のなかの殺陣と仁左衛門の風格で見せる。菊五郎のセリフが朗々と歌舞伎座に響き渡り、その立派さで2月の芝居の幕を下ろした。花道を引っ込む仁左衛門の由良之助はどこかさびしそうな顔をしていた。自分の生涯を仇討ちという、どこかむなしいような行為にかけ、成し遂げてそして死なねばならぬ人生に対しての諦念の気持ちだろうか。3月にも雪が降る2025年の東京であった。
2025年2月歌舞伎座夜の部「阿古屋」「江島生島」「文七元結」
仕事で、直面したくない現実があって、帰り道で中華料理屋に入り、ひとり飲みセットを頼む。2つの料理を選べるから干しどうふの炒め物を頼んだら、おんなじような干しどうふの炒め物がお通しで出てきた。よろしくやって、もう十分かと思いつつリャンピーを頼む。からい。からい、からい、つらい、からい、からい、つらい、つらい、からい。自分のつらさをからさでまぎらわせて、よくわからなくなって帰宅した。
人生の現実にいかなことがあろうとも夢を見せてくれるのが芝居かもしれない。玉三郎の「阿古屋」花道から出てきたところは美しさよりも老練な立女形の味わいを感じさせたが、本舞台で動き始めるとどんどん美しくなっていった。階段に身を投げ出すところの美が見事。
舞台上で琴、三味線、胡弓を演奏するのが眼目の舞台である。一生懸命に何かをするとき、どうしてもその人のはだかの姿が出てきてしまう。無意識に唇を噛んでいたり、貧乏ゆすりをしたり、といったことだ。楽器の演奏も、そういう素を引き出してしまう行為の一つだろうと思うのだけれど、舞台の上で披露しなくてはならないということは、あくまで役のままで琴・三味線・胡弓を弾いて自分の本来の癖や意識は隠し通さなくてはいけないということである。我が心我にも隠す安心。しかも歌いながら弾くのである。歌詞にひかれてふと思いびとの景清のことを思う。集中がふととぎれる。重忠に咎められて、また弾く。演奏も長いのだ。それぞれの曲を本職の歌や楽器が支えるのだが、むしろそれゆえに、舞台で披露できる演奏というのよりもおそらくさらに高度な、プロの技に十分対抗してともに奏でるだけの技術を持たなくてはならなくて、そのあたりも演じる側の困難さなのだろうと思った。
一緒に行った友人は琴の爪を指にはめるゆっくりとした行為にエロティシズムにも似た陶酔を覚えたようである。自分は爪をはめ終わったり楽器を持ったりしたらすぐに弾き始めるその間合いの詰まり具合に驚いた。それと、人形振りの岩永の眉と足はどうなっているのだろうか、近くで見てみたい。
「江島生島」は、美しいがよくわからない。冒頭の幻想の場面で、激しく襲いかかってくる「世間」が見えた。
「文七元結」。勘九郎の、父親譲りの独特の調子と歯切れ、さらに愛嬌がひきつける。きゅっと座って煙草を吸っている姿が粋。七之助のお兼とのやりとりが当然ながら息ぴったりで、七之助がおもしろがって客席のウケをとっていた。大川端で文七を助ける場面は、鶴松の文七がやや重ったるい感じの演技だったが、「どうせわたしはいいんでございますよ」と自暴自棄になってしまう味が現代的で観客の反応を誘う。金を投げつけて、「若いの、死んじゃあいけねえよ、死んじゃあいけねぇよ」と絶叫しながら、勘九郎が花道を駆け去る。2回目の「死んじゃあいけねえよ」で目が合った気がした。芝居の枠を超えて、ひとりひとりに必死で伝える魂の叫びのように聞こえた。
今日1日の経験としての映画「敵」
今朝も悪夢を見て起きた。よく悪夢を見る。今朝ははっきりとしたストーリーがあり、手に汗握る展開の末にスプラッターな出来事が起こって、そこから陰謀と戦う冒険譚のようになって、起きた。前の職場の先輩が出てきた。
日中、アマゾンからの荷物をひたすら待つが来ない。YouTubeで、「春とヒコーキ」の土岡さんのニート時代のエピソードを聞く。なにもしていない自分に対する焦りがつらく、そのうちにその焦りを感じないようにするソフトウェアが脳にインストールされたようになってきたという。休みの日の自分と同じだ、と思う。焦って焦って、それから逃げるためにもう一度寝るのが、じぶんのやり方だ。そしてまた悪夢を見る。
待ち切れなくなって家を出て少ししたらアマゾンの配達員から電話がかかってきた。どうせそんなことになるだろうと思った。
夕方、映画「敵」を見に行く。
現実と夢が次第に混濁していく、高齢の元大学教授。自分のプライド、過去の罪、下心の愚かさ、が、パソコンに届く迷惑メールの内容とないまぜになって、現実と見紛う夢にあらわれる。これも自分と同じだ、と思った。悪夢は変に鮮明で、どちらが現実なのかよくわからなくなる。社会人になりたてのころ、じぶんの意思とは関係なく住んでいた土地で、よく現実と夢の区別がつかなくなっていた。
モノクロームの世界のなかでぬたっと光る、串に刺される前のレバーが気味悪かった。
ぼくのお日さま
見つめる。
誰かを黙って見つめる姿。そのワンショット。カメラはそれをじっと見つめるが、俳優はなにも語らない。
少年・タクヤを見つめる、フィギュアスケートコーチの荒川。いま教えているはずのさくらの方は見ていない。恋人と車ではしゃぐ荒川を見つめる、さくら。その目撃が、傷を生む。アイスダンスのレッスンをするタクヤとさくらを見つめる、タクヤの親友。滑りおえたふたりに、まっすぐな拍手を送る。
核心に迫る。
さくらが現れなかったスケートリンクで、「もう帰ろう」という荒川に、タクヤは「やっぱり嫌だったのかな」と問いかける。黙ることもしゃべることも傷になる時間、あやふやなまま帰りはしない。ふたりの部屋のベッドの上で、荒川に「こっちに来てよかった?」と聞く、恋人の五十嵐。「コーチなんてどこでもできる」とはぐらかす荒川に、五十嵐は「おれにはもうここしかない」と追い打ちをかける。「教える生徒もいなくなってしまった」のだから、本当はどこでもできるわけじゃないことはふたりともわかっている。背中をむける荒川。
言い切れない。
かつて自分が使っていたスケート靴を渡して、「あげるんじゃない、貸すんだ」といった荒川にむけたタクヤの「ありがとう」は、ことばが声になるころには相手はもういない。街から立ち去る日のキャッチボールで荒川が投げたボールがタクヤの頭の上に浮いて、取って戻ってきたところにようやく、「ごめん」という。あのときの、ことばにならなかった傷つきが、いまボールとともに手渡される。間に合わなかった「ありがとう」もまた、こんどはちゃんと、見つめる相手に届く。そのワンショット。
4対3のざらついた画面のなかの、雪景色。差し込む光。その瞬間にしかない、おさない美しさ。凍った湖の上ではしゃぐ3人の、そのときだけの輝き。クィアの表象があるからこそ、つらいことが起きずにこのままずっと、と願ったけれど、やはりそのままではいられなかった。直接投げられたことばを飲み込んだ荒川と、間接的に見捨てられて傷つくことになったタクヤ。なにも理由がわからなかったからこそ、少年の美しさと純粋さは保存され、ラストシーンへとつながる。でも、と思う。なぜ傷つけられ、そして同時に誰かの傷つきの理由になり、最後には立ち去らなくてはならないのか。永遠に続かないからこそ美しい光を捉えて、雪が溶けて春になって、その景色からだれも追い出されなくてすむようにと願う。
大阪松竹座7月大歌舞伎「木の実・小金吾討死・すし屋」「八重桐廓噺」
去年歌舞伎座で見た仁左衛門の「すし屋」。やはりまたぜひ見ておかなくてはと思い、行った。劇場も違い、前回は遠くで、今回は近くで見て席も違い、また新鮮に涙することになった。
古典は、観客がこの先何が起こるのかを知っているというところが、新たに作られる演劇や映画、ドラマなどとは違うのだと思う。演じている役者は観客以上に何が起こるのかをわかっているが、しかし全く何も知らないかのように舞台の上に存在している。古典歌舞伎とは不思議なものだと思うけれど、だからこそ「木の実」の無邪気な家族の姿が胸を打つ。仁左衛門の権太は足取りに年齢を全く感じさせず、高低と緩急を駆使したセリフで小金吾を脅す様子を楽しく見せる。落ちた木の実にあえて意識を向けさせておいて荷物をわざと取り違えるところ、戻ってきて中をあらためて嘘をついて言いがかりをつけるところ、やっていることが丁寧でわかりやすい。セリフと表情で、気のいい兄ちゃんとごろつきを行き来する間合いがよくわかる。捨てて「うるせえ」などと言って、小金吾のセリフのいい終わりに大きな声で脅すところなど、見ている方もビクッとするようであった。一行を見送って憎まれ口を聞くのを見ていると無邪気で嫌いになれない、なんとも言えないかわいさがある。
家族だけになってからの、小せんの忠告を不服そうに聞くところ、なれそめを話してやり返すところなども稚気があって愛らしい。子どもに博打の真似事を教えて、その腰につけていた笛に目をつけて預かるところ、こちらはこの先のことを知っているからもうすでに涙ぐんでしまう。この女房はなんだかんだ言っても、子どもに誘わせて権太に家に一緒に帰ってもらうおうとして、帰ってもらえるとなればうれしくてたまらないぐらい、権太のことが大好きなのがよくわかり、仁左衛門の権太の方もそれだけ愛されるのも納得するような若さとどうしようもなさと、そして本音ではどこか純粋な感覚が伝わってくる。花道でちょっと振り向いてみろよと言って小せんといちゃついているのを見ているとこっちが赤面してきそうだが、やはり観客としてはこの家族の運命を知っているからここでも涙ぐんでしまう。
「小金吾討死」は、これまで見たときには立ち回りがちょっと長い感じがして見ているとダレる印象だったが、今回はおもしろかった。舞台に近い席だったのもあるのか、歌昇の演技がよいのも大いにあるのだと思う。背は小柄だが凛々しく、歌舞伎役者らしい姿と思った。前髪の若衆姿が美しい。歌六の弥左衛門。はるか昔自分が幼かった頃、歌六という役者はちょっと独特な顔立ちをしていてなんというか「なま」な感じがするなぁと思っていたのだけれど、年を経てその顔に風格がつき、味わいが増し、恬淡とした魅力になっている。孝太郎の若葉の内侍は自分の役割に徹していて、徹するということの尊さを感じさせた。
「すし屋」。時蔵改め萬壽の弥助と壱太郎のお里は若々しくいちゃつく。権太が「コチコチ」で金庫の鍵を開けて母親が褒めるのは、息子が泥棒みたいな手口で鍵を開けたのを喜んでどうするんだと思ってバカバカしいが、そこにどうしても愛してしまう権太の愛嬌と母のどうしようもない愛がある。水で涙のように見せて、「してやったり」という顔をするなど、やっぱりどうも憎めない。弥左衛門が帰ってきてすし桶に首を入れて置き直し、「右から2番目」が入れ替わってしまうところで笑いが起きる。わかりやすくしてくれているからこそだと思うが、笑っている場合ではないのだから黙って見ていればいいのに、と思ってしまった。この客席の笑いが芝居をちょっと壊してしまっている。弥助が弥左衛門に促されて維盛の格を表すところ、浮かせてくるりと返して身体を回すような足の動きが印象的だった。若葉の内侍と六代が来て、弥助と再会してそこからは怒涛の運命になる。
権太は金が入っていると思って持って行ったすし桶を開けてそこに小金吾の首を見たとき、逃れられない自分の運命を悟ったのだろう。それは小悪党ではあってもあくまで小市民的な幸せを手に入れていたはずの彼が、大きな歴史のなかで犠牲者になった瞬間だった。
「うまくいった」と言った瞬間に父親に刺される権太。その「うまくいった」は、維盛たちを売って金を得ることを指すのではなく、自分の家族を身代わりにして維盛たちを守ることが「うまくいった」という意味だった。手負いになって父親の計画の甘さを指摘し自分の本心を語っても、もう遅い。母から金をせびるために戯れにも「遠いところにいく」、つまり死なねばならぬのだなどと言ったことも災いを引き寄せたように感じて悲しい。思慮深いはずの弥左衛門がなぜあの瞬間に、本当は愛していたはずの息子を刺したのか。身代わりにしようと小金吾の首を切って持ち帰った時点で、弥左衛門はすでに生と死の正常な感覚が失われていたのだと思う。そして、自分が大事に守っていたものを裏切られたことの怒りが爆発した。「いがみ」と言われ、その貼り付いた印象が権太の本心を感じさせなかった。それが不幸を招いたと同時に、梶原を欺くことにもなった、と思えればまだ良かったが、羽織の裏の文字から梶原は最初から見逃すつもりだったということが明らかになってしまうのは権太にとってなんと絶望的なことだろうか。もとより妻と子を差し出した権太は自分だけ生きながらえることなどできず、死ぬしかなかったのかもしれない。しかしそれでも、その死の意味付けさえ奪っていく作劇の、あるいは封建制度の恐ろしさを感じざるを得なかった。
萬壽の弥助は虫の息の権太に気持ちを寄せ、自分が生きるために目の前の庶民の若者が死んでいく姿に心を痛めているかのように見えた。大きな歴史を描く物語で身分のある役は庶民のことなど気にもかけないのがあたりまえだというような感覚がなんとなくあるから、弥助が身分で人を見ない真っ当な感覚を持った人間に見えた。そしてそれは奉公人に身をやつして働いてきた苦労から来るのかとも思ったのだ。ところが羽織の裏の書き込みを発見すると、自分が生きながらえるのはかつて父が頼朝を助けたからだ、ということになってしまい、弥助にとって目の前にある権太の死は薄れて行ってしまうのである。いまここで権太が死んでいく、しかも他人の命を救うために死んでいくのに、その死から目を離すかのように自分が生き延びるのは父の過去の行いのおかげで、それがわかっている頼朝は大した人だ、みたいな話になって行ってしまうのは、現代に生きる者から見ると不自然でグロテスクに見えた。眼前の庶民の死よりも、身分の高い登場人物による大きな歴史の物語に気持ちが持っていかれてしまうことが、封建制度というものの特性なのだろうか。刺さった刀をグッと動かして2、3度苦しく息を吸い手を合わせた幕切れの仁左衛門の顔は、それら全てを許すかのようにおだやかで、これでよいのだという表情だった。
それにしても、家族の仲の良さを見せてからの転落、すし桶の取り違え、身代わりにする小せんと善太は口元を隠され観客には本当は誰なのかはっきりわからず、善太の笛が最後に大事な役割をするところなど、巧みに練り上げられた名作だと思う。実は小学校に上がるかどうかくらいの頃に通しで上演された義経千本桜でこの「すし屋」だけは寝てしまったという記憶があるのだが、数十年経って味わいがわかってみると、すばらしい作品である。
梅枝改め時蔵の「嫗山姥」。語りの内容がよくわからないまま聞いて、見ていても全く見飽きないおもしろさで、汗だくになっての熱演だった。古風な見た目がよい。あまり口元をゆがめない方がよいと思った。菊之助は短く出るだけで美しく、萬太郎がかわいい。その前の「汐汲」は扇雀が若さの美しさとは違う、成熟した美しさを見せていた。こういう舞踊はすべて娘道成寺の変奏曲のように見える。筋などどうでも良いけれど、どんな話なのかはよくわからず、ただシーンシーンだけが残って、むしろそうやって見ているのが正解な気もした。
“家族”の物語に感動することについて 映画『明日を綴る写真館』
家族の物語は感動しやすいので危険だ、と思う。
説明的なセリフ、繰り返される逆光のショット、意味もなく長いカット。全体的にはさしたることもない映画だと思った。映画的な見どころは瀬戸内海の突堤の上に立つ平泉成と佐野晶哉、それから平泉成の息子役の嘉島陸の3人がそれぞれにバラバラの方向を向いて語り合うシーン。ハイポジションから瀬戸内の静かな海面をバックにした平泉成の顔と、交わらない視線を交わらなく撮影するカットの積み重なり。それでもこのシーンも「写真とは何か」を語るセリフの説明的で表面的なことは残念だった。
ストーリーとしてもリアリティーが足りず、東京で売れっ子の写真家が「写真を撮る」という行為についてのことばを持たないことなどあり得るだろうか。地方の写真館の主に弟子入りして学びとったことも、最初からわかりそうな気がしてしまって、このあたりの説得力のなさも没入できなかった理由である。あまりにもわかりやすすぎるトラウマと成長。
なによりもカットの重ね方のつたなさが、ひと昔前のテレビドラマのようであった。
それでも、平泉成の佇まいの説得力、そしてなによりも声と語り。よくモノマネされるのはそれがすばらしいからであって、人生の年輪がそこに出ていることがモノマネとの大きな違いだ。
老人には巨樹のような人と巨岩のような人がいるように感じている。平泉成は巨樹のような人だ。柔らかく、周囲を受け止めながら、大きな樹冠で覆う。その年輪が魅力になる。
佐藤浩市はひたすら写真を撮られる姿をひたすらカメラに捉えられ続けても、物語を発散し続ける。市毛良枝、黒木瞳の場になじんだ演技が魅力的だった。
佐野晶哉のことが実は好きで、公開からしばらく経った映画館にいた数人は同様のモチベーションで見に来た方だったと思われる。グループのなかにいるととびきりに陽性なタイプには見えないのだが、前半の暗い雰囲気が無理している感じに見え、映画後半の弾けたような笑顔は本人の素に見えるところからすると本質的には明るいタイプなのだろうと思った。非常に器用で賢い人だと思って尊敬しつつ密かに応援しているのだけれど、それでも演技というのは難しいのだということを感じる。物語的にも主人公の変化の中間がなく、それが演技の難点にもなってしまっている感じがした。後半に向けての笑顔こそが本人の魅力で、周囲に愛されながら仕事をしたことは映画本編だけでなく周辺の様々な情報からも伝わってくる。すばらしいことだと思う。
私にとってのこの映画のいちばんの問題点は、家族の物語で感動させてくるところである。2024年の世界をより良いものにしようと願う一環として、「典型的な」家族の「典型的な」感動に安直に与しないようにしたいと思っている。だが、家族という物語はうっかりと人を感動させてくる。それがいくら陳腐に思えたとしても、亡くした妻への思い、孫が祖母へ向ける心、親子の相克と和解、には涙腺を緩めさせられてしまう。この感動しやすさこそが危険なのだ。世の中に溢れる物語が、私たちに「ふつうの」家族の「ふつうの」幸せを教え、そこに導こうとしてくる。だが、ひとりひとりの独立した意志を尊重して、家族を持とうが持つまいが、個々人の幸せを追求してよいのであるし、そうするべきだと思う。その自由を忘れさせてくる、「やっぱり家族っていいよね」というメッセージには、それはそれで感動してしまいながらも、しっかり反抗する気持ちを忘れたくない。物語がありがちだからこそ、逆説的にその気持ちを強くさせてくれる映画だった。
悪は存在しない
悪は存在しない。それは本当だろうか。確かにこの映画のなかで誰かの悪意を感じる瞬間はない。誰もがそれぞれの立場で真っ直ぐで、まるっきり嫌なやつは存在しないように見える。しかし、悪は存在する。悪は存在しない、とわざわざいうのは、悪が存在するからであり、この世界のなかに悪が存在しないわけがない。雑にいえば、悪が存在するからこそ映画が存在するのではないか、とさえも思える。
冒頭から繰り返されるドリーショット。見上げた木の枝の細い一本一本までも、映画は映し出す。それが唐突に打ち切られて表示される黒い画面のクレジット。また見上げた木の枝のドリーショット。ラストにも再び、カメラは木々の枝々を映し出す。何を意味するのだろうか。
途中まで物語ではなく、「世界の感じ」を描き出そうとしているだけなのではないかと思うようなテンポでシーンが重なっていく。ときおり不穏に音楽とカットが唐突に終わり次のシーンへと向かう。その瞬間だけ心がざわつく。平穏な、美しい信州の自然も、そういえばなにかが不穏なのかも知れない。だって映画とは物語であり、ここで何かが起こることは確実なのであるから。
娘を追って歩く父親を横から捕らえたドリー。土地の起伏に遮られて、再び姿が見えたときには娘を肩車している。
鹿の水飲み場を映した、引きの画、アップ。鏡のような水面は何を映すのか。
そしてラスト。私にはその行動原理が、この心の動きがわからなかった。悪は存在しない、のか?
登場人物たちが汲みにいく「水」。「水は低いところへ流れる」ということば。ラストシーン近くに出てくる階段上に低い方へ流れていく水路。初め父が、そして娘が拾う鳥の羽。父娘が見る「半矢」の鹿の骨、「半矢の鹿は人を襲う」ということば。さまざまなモチーフがラストシーンに向かって用意されていくのはわかるが、ラストシーンの本質的な意味がわからないまま、もうすこし考えてみようと思う。