2024四国こんぴら歌舞伎大芝居「沼津」「羽衣」

4月はじめ、四国は香川県琴平町は桜満開であった。

四国こんぴら歌舞伎大芝居は5年ぶりの開催。青空のもとに大勢の観客とともに芝居小屋までのだらだら坂を登った。こんぴらさんの御本宮まで登って降りた後だからすでにしてしんどい。坂の途中で警備員が大声で坂を登る人々を道の端に寄せて車を通していた。

金丸座の前の広場はテントが立ち、詰めかけた観客でいっぱいになっていた。弁当やお土産を引き換えて入場の列に並ぶ。風情を感じる暇がなく行列して忙しない。頭を下げて木戸をくぐると江戸の世界である、と言いたいところだが現実はある程度連続的に移り変わっていくにすぎなかった。

席は枡席の中央あたりで、ひと枡分と思しきなかに5人分の席がある。前が2人、後ろが3人で交互に頭がのぞくようになっているが、座椅子は固定されていないから必ずしもそうなるとも限らない。さっきもらったお土産の袋と自分の鞄を置くともう座る場所がない。なんとか作り出して座っても足がたたみきれない。あぐらの両膝が浮いたような形で席についた。

「沼津」。義太夫の都合で仕方がないのかもしれないが主役級が登場するまでの間が長く、おそらくこの場に多く来ているだろう歌舞伎を見慣れない人たちがどう思っているのか、不安になる。お腹の大きな女性が喉をつまらせてあっぷあっぷするさまなどで沸かせてはいたが。ようやく話が動き始めると、染五郎の荷持が爽やかでいい男である。花道を出てきた瞬間からその若さと美しさが広がった。幸四郎の十兵衛はゆったりとした余裕のある商人の風情。鴈治郎の平作は出てきた瞬間からやりすぎなくらい汚く、人を騙すんじゃないかと思わせるような老人だが、茶店の女性と話す様子を見るとそうでもないらしい。なんとか荷物を担がせてもらうが持ち上がらない。なんだかんだといってごまかしながらやっと持ち上げる。観客を大いにわせている。平作と十兵衛のふたりが上手の仮花道を通って客席のなかにくる。さらに大いにわく。触れられそうな距離どころか、絶対に衣装の端々は擦れていく近さだから盛り上がって当然である。金丸座ならではの芝居体験だ。

平作の家になってからは2、3のアクシデントがあったが役者たちが上手く処理した。しかしバレないようにとはいかなくて、客席もこの困ったことをどうやってなんとかするのか、一緒になって息を詰める。これも距離の近さゆえかと思った。そしてアクシデントの一部はふだん大きな舞台で芝居をし慣れているのがごくごく小さく狭いところに急に来たゆえのようであった。幸四郎の十兵衛は壱太郎のお米に一目惚れしたかわいらしさから、あまりに汚い家にちょっと引くところ、それでも我慢してものにしようとして邪魔になった荷持と言い争うところ、おもしろく見せる。壱太郎のお米は最初可憐だが夫がいるといって毅然とするとそのくらいの年齢にも見える。どうしてもあの印籠を盗まねばならないという思い入れがよくわかった。盗もうとしたことがバレてからは、相変わらずちゃんと予習をしないのが悪いのだが大雑把にしか利害関係がわからずちょっとモヤモヤしながらみた。人間関係を説明しながら芝居を進めなくてはならなくなるとやはり楽しませ方が難しいような感じがする。それならばこの平作が実の父なのかとわかって、顔をちゃんと見たいがしかし敵であるから名乗りもできず逡巡する心の動きをもうちょっとじっくり味わわせてほしかった。このあたりはいまから思い返すと1月歌舞伎座の「息子」の変奏曲のようでもある。

足が痛いので組み換えて体育座りのような形になったら腹部が圧迫されて次第に催してきた尿意がこの辺でだんだん高まってきて、千本松原は見せ場であるものの我慢比べのようになってしまった。親父に傘を差しかける息子という絵面を考えだした人は偉いものだと思う。お手洗いは大行列だった。狭いところに不自由な体勢で縮こまって見るにはちょっと長すぎた。

「羽衣」。天女という表象のためには抽象化が必要であり生身の人間が出てきてしまう歌舞伎は能よりも不利である。雀右衛門はかわいらしさは出ていたものの生身の身体を乗り越えるところまではいかない。意外と、というかなんというか、現実感のある肉体の人なのだとかえって感じる。初日の前に行われたおねりでインタビューに答える雀右衛門の映像を見たが人柄が出ていて非常にかわいらしく、魅力的であった。染五郎はこの白塗りよりもさっきの素顔に近い出で立ちの方が格段に美しく、それが彼の現代性なのかもしれない。日常との距離の問題か、年齢の問題か。最後は宙乗りで去って行くが、そのために花道の上の頼りない感じの通路のようなところに黒衣が2人、たしか演目の最初から這いつくばって準備していて苦労が多いと思った。

外に出ると道沿いの桜の前にのぼりがはためいていて、やっぱりなんだか夢のようであった。席の狭さを周りの客と困りあって、足を伸ばしてもいいですよ、といってもらったりという交流もあり、「こんぴら歌舞伎」という体験として非常に満足した1日だった。

3月歌舞伎座夜の部「伊勢音頭恋寝刃」

いつも一部分だけが上演される演目には理由があるのだと思う。芝居を見るとき、筋を追って見るのか、それとも瞬間瞬間の「味わい」のようなものの積み重なっていく様を見るのか、古典芸能として十分に成熟しさらにそのある意味排他的な特性によって役の後ろに役者が、役者の後ろにその系譜が浮かび上がってくる歌舞伎においては後者の楽しみ方が占める比重が大きい。もちろんその「味わい」のようなものは物語の筋のなかで成立しているものではあるし、例えば仮名手本忠臣蔵の六段目や七段目のように大きな歴史のなかでの個人の悲哀というような骨太なストーリーそのものが感動を呼ぶこともあるのだが、一部だけが上演される演目は物語全体の筋が物足りないからそういう結果になっているのであって、ちょっとやそっとの努力では目の前にある物足りなさという事実に対抗しきれないのではないか。

刀の折紙と刀そのものをめぐって、本当の折紙までも騙し取られてしまう場面は、「どういうメカニズムで騙されたのか」ということは納得できるようになっているものの、かわりに「どうしてこんな道端で」とか「どこまで事前に計画していたのか」とか「正しいものと間違ったものを重ねて渡したら危ないに決まっているのではないか」とか、よくわからない気がするポイントが次々に出てきてしまって、メカニズムがわかる分逆にモヤモヤする。こういうのを演劇評論家は「筋を通しただけ」というのだろうか、と思ったりした。

手に入れた手紙が読みたくて、夜が明けるのが待ち遠しくてじれているところに二見が浦で日が昇るところは舞台装置も含めてひとつ「味わい」が極まるところでもあり得ると思うのだが、前後で謎が多いのとたくさんあるシーンのうちのひとつになってしまっているのとで際立たない。

講中の人たちが集まるなかで金を盗んだ盗まないに至っては、そもそも話の筋もよくわからず、なんだかわからないがずっと揉めている、という印象になってしまった。ただ、これは筋書も買わずイヤフォンガイドも借りず、かといって事前に予習をしっかりして行ったわけでもない自分自身の責任でもある。そのなかで雀右衛門のお紺を「叔母」と言って場を切り抜けようとしたところに本物の叔母が来てしまいあたふたするあたりは役者そのものの魅力を感じた。高麗蔵の叔母も美しく格式を見せた。

ここまでのところで一番問題なのは幸四郎の貢と菊之助の万次郎が全体的に似すぎていて、キャラクターの違いがよくわからないことである。どちらもかっこいいし美しくしかも育ちが良さそうで、3階席から見ているとふたりがごちゃごちゃになってしまって、筋のわからなさに拍車をかけた。

油屋。魁春の万野がそんなに嫌味ではなく、別にこのくらいの人はいるよなぁと思ってしまったことで、貢がいらだっていく段階も見えづらかったように思った。弥十郎のお鹿は大河ドラマで名を上げたこともあり出てくるだけでご馳走の味わいで、しかもそれなりにかわいく見えて、話の筋とは違って嫌がるのもむしろかわいそうな気がしてしまった。

幸四郎菊之助も、雀右衛門魁春も、とても好きな役者である。その分かえって、「油屋」と「奥庭」に集中して全精力を傾けて見せてほしい、と思ってしまったのかもしれない。なんだかよくわからないなぁ、と思いながら眺める時間がどうしても長くなってしまったのは、物語の筋そのものの持つ力がいまひとつだということなのだろうと思う。

このほかに松緑と梅枝の「喜撰」。梅枝が古風な味わいで良かった。

3月歌舞伎座昼の部「傾城道成寺」「元禄忠臣蔵」

時間の都合で幕見席で2幕のみ見た。事前予約制になってからは初めて行ったが、スマートフォンでアクセスしたとき、最初に表示される座席表のどこをタップしても次の画面では左端から表示されることに気づかず、思っていたのとはちょっと違う席を予約してしまった。高校や大学の頃に壁沿いの段の上に上がって立ち見で見ていたことを考えると、かなり異質なものに変貌している。建て替え後の歌舞伎座は4階でも舞台がちゃんと見え、予約して着席もできるとなると、座席がちょっと狭く膝がつっかえることをのぞいたらこれで十分なのではないかと思ってしまう。

三世雀右衛門追悼の「傾城道成寺」。道成寺物というのは、「あの歌詞知ってる」が別の世界のなかで現れることを楽しむものなのだろうか、と思いながら見た。娘道成寺のはなやかさなまめかしさに比べると、遊郭の一間にいる遊女という設定で進行することもあって空間の広がりという点で物足りなく、かつ前に帯を結んで大きな鬘で身動きも取れない感じなのだが、知っている歌詞を聞き取るとあの部分をこうやって生かしているのかというおもしろさがあった。本来というか元々の姿を知っているから味わえるものだと思う。踊りとしては娘道成寺のように見ていてワクワクするようなわかりやすいおもしろさはなく、ぼんやりと眺めた。動きの素早さや身体のリズム、その変化、引き抜きのような視覚的な効果、がないと物足りなく思ってしまう。本性を見現して髪を乱し姿を変えるところも、これくらいではこちらのテンションが上がりきらない。これはなにを見慣れているか、の問題でもあると思う。能であれば一足踏み出すだけで楽しめることもある。歌舞伎舞踊を見慣れていればおもしろさを見出せるのだろうと思った。雀右衛門は、首をやや前に出してシナを作るのが味がある。驚いたのは大谷友右衛門で、口調がフガフガしてしまってなにを言っているのかよくわからなかったので心配になってしまった。今回は三世雀右衛門の追悼で、その長男である友右衛門は、立女形となった弟雀右衛門と比べて扱いの差がはっきりとあって、そのことをどう捉えたらよいのか、観客としてはよくわからない。なにかの世界のなかで生きていくということのなかにはいろんな道がありさまざまな価値があることは大人になったらわかるが、外から見て勝手に悔しくなってしまうような気もした。菊五郎の存在感の大きさも印象的だったと同時に、その老いも衝撃であった。4階席からぼんやりと眺めるきらびやかな舞台の中にいろんな人生がちらちらした。舞台から見たら客席にいろんな人生がちらちらするのだろうか。

ロビーには三世雀右衛門の舞台写真が展示されていて、その舞台姿を自分も見たことがあるのがなんだか不思議に感じる。キャプションの年号を見てしばし驚いてみたりした。

「元禄忠臣蔵」の「御浜御殿綱豊卿」。かつて「望月」の装束の舞台写真を見てその写真だけで好きになった演目で、大口袴とオレンジ色の能装束に白い鬘とその上の扇という姿の美しさは発明だと思う。もちろん能からとった姿だが歌舞伎としてのこのビジュアルに子ども心に捕まえられてしまった。今回は仁左衛門の綱豊で、こういう機会は逃してはならないと思って多少無理して駆けつけた。以前見たのは当時の橋之助だったか梅玉だったか、3階の上手側の横の席で舞台がほとんど見えなかった。ただセリフだけを聞いていてもこの芝居のおもしろさがわかって、岩波文庫の「元禄忠臣蔵」を上下ともに買っていまも持っている。仁左衛門の綱豊は鷹揚で洒脱でとにかくこれはモテること間違いない。いい男である。しかも大名家の何不自由ない環境で真っ直ぐに育って屈託がない。それでいて頭はキレる。そういう存在として舞台上にいる。「わしはまだ銭というものを持ったことがない」というのは本当にそうだからそう言っているのであって、そこには全く嫌味がない。そういう人である。台詞がうまい。対する幸四郎の助右衛門はユーモアがあって、そこがうまい。敷居を入る入らないの言い争いで客席から何度か笑いが起きた。台詞回しが巧みで、自分がぼんやりしていた間に役者が名優になっていた、というやや思い上がった感想を持った。人生を重ねつつ日々舞台に上がって努力しているのだからうまくなって当たり前なのだが。梅枝のお喜世も美しく、座敷での論争を楽しく見たが、ただの印象論ではあるものの丁々発止という感じの楽しさではなかった。幸四郎のひとことでこんなに笑いが起きてしまって、緊迫感は薄かったように思った。やりとりのなかで政治の筋が見えてハッとする、その感覚を楽しみに行ったがその点ではすこしものたりなかった。しかし要所要所で笑いも起きるこの客席の千何百人の観客は皆この芝居の背景も筋もわかってみているのだろうかと思うと、自分の文化レベルを思い上がってはいけないと思う。最後能舞台の裏になると仁左衛門のセリフがなぜか失速してしまい、やや締まらなかったのが残念だった。台詞劇であるからして当然だが言葉の応酬とその表現の巧みさを楽しみ、仁左衛門の綱豊の「格」を楽しむ舞台だった。

 

2024年3月南座「河庄」「将門」

まず、壱太郎が客席後方から現れて、グッズや筋書き、弁当などの販売促進トークをしたが、程よく笑いをとりながら軽妙に進めていて、そのトーク力に感心した。南座のマスコットキャラクターも登場して写真撮影タイムもあり、先ほど度重ねてのアナウンスで電源を切らせたスマホを再びオンにしてもらって、写真を撮るように呼びかけていた。ただ、これがのちのち演目中にスマホが鳴る問題につながったのではないかとも思う。

中村右近の紙屋治兵衛、壱太郎の小春、隼人の孫右衛門で「河庄」。最初に出てくる吉太朗の丁稚が子どもっぽく大げさに演じながらも嫌味にならず秀逸。壱太郎の小春はおさんからの手紙を読んでの思い入れが美しかった。丁稚が駄賃をねだっても心ここにあらずな様子は、江戸時代の優れた人間観察と描写だと思う。右近の治兵衛は花道の出の背中に色気があった。上方和事のはんなりとした感じを思って見に行ったが、どうしようもないことを言って声が大きくなるとやわらかいというよりも居丈高な感じになり、こういうものなのだろうか。事前には、演目は違うけれど藤十郎の伊左衛門のようなじゃらじゃら言っていつまでも子どもっぽく、駄々をこねてもかわいらしくて、仕方がないから許してしまう、というようなイメージを持っていた。どちらかというとちょっとこわくなるような声の荒げ方であったように感じた。隼人の孫右衛門は侍の振りが身についていない感じがかわいらしく、兄だと名乗ってからの関西弁のやりとりと商人らしさをおもしろく見た。隼人と右近の「座れ」と言い合うやりとりなど、掛け合い漫才のような勢いが若さと現代性なのだろうか。「河庄」は初めて見たので、やりとり自体は古典的なのか判断がつかないが、テンポとノリに今っぽさを感じておもしろかった。言い合いの間じっとしている壱太郎は次第に美しくなっていくように見えて不思議だった。お庄の菊三呂がそれらしく非常によかった。こういうお茶屋の女将のような役のおもしろさを教えてくれたのは秀太郎で、何気なくやっていて本当にその世界に生きているかのように見せるほどの良さとナチュラルさは、たぶん誰でも出せるものではないのだろうと思う。

「将門」は花道のスッポンからの出がよく、ただその後「そっこでせい」まではなんとなく意識が別の方を向いてしまった。演者には申し訳がない気がするものの、歌舞伎でも能でも落語でも映画でも、見ながら別のことを考えている時間があって、そのこと自体はそんなに悪くないと感じている。客席の椅子に座って舞台を眺めているときにしか現れてこない思考の中身もあるのではないかと思う。その後の立ち回りもやや長く、屋台崩しはセリが下がるのがゆっくりすぎて段取りにしか感じられずワクワクしなかった。屋根の端などの壊れ方が左右対称なのも趣がない。壱太郎の滝夜叉姫、隼人の光圀。壱太郎は最初の手紙を巻き直すところと、最後の旗を投げるところでちょっと思うようにいかなかった感じに見えた。こういうところも「芸」だがもちろん思う通りにいくときもいかないときもあり、それはそれで良いのだが、なんとなくそこで内側の「男」性というか、そういうものが見えて、でもある意味ではそれもおもしろさなのかもしれない。

とらやの売店で売っていた3つ入りのおはぎがどれもとてもおいしく、最高だった。つぶあんと、きなこにはなかにあんこも入っていて、さらにつやつやと輝くこしあんは黒糖の風味がした。ひとくちでちょうどの大きさもすてき。劇場の外に出ると雨に濡れた京都の繁華街に観光客があふれていた。