2024年3月南座「河庄」「将門」

まず、壱太郎が客席後方から現れて、グッズや筋書き、弁当などの販売促進トークをしたが、程よく笑いをとりながら軽妙に進めていて、そのトーク力に感心した。南座のマスコットキャラクターも登場して写真撮影タイムもあり、先ほど度重ねてのアナウンスで電源を切らせたスマホを再びオンにしてもらって、写真を撮るように呼びかけていた。ただ、これがのちのち演目中にスマホが鳴る問題につながったのではないかとも思う。

中村右近の紙屋治兵衛、壱太郎の小春、隼人の孫右衛門で「河庄」。最初に出てくる吉太朗の丁稚が子どもっぽく大げさに演じながらも嫌味にならず秀逸。壱太郎の小春はおさんからの手紙を読んでの思い入れが美しかった。丁稚が駄賃をねだっても心ここにあらずな様子は、江戸時代の優れた人間観察と描写だと思う。右近の治兵衛は花道の出の背中に色気があった。上方和事のはんなりとした感じを思って見に行ったが、どうしようもないことを言って声が大きくなるとやわらかいというよりも居丈高な感じになり、こういうものなのだろうか。事前には、演目は違うけれど藤十郎の伊左衛門のようなじゃらじゃら言っていつまでも子どもっぽく、駄々をこねてもかわいらしくて、仕方がないから許してしまう、というようなイメージを持っていた。どちらかというとちょっとこわくなるような声の荒げ方であったように感じた。隼人の孫右衛門は侍の振りが身についていない感じがかわいらしく、兄だと名乗ってからの関西弁のやりとりと商人らしさをおもしろく見た。隼人と右近の「座れ」と言い合うやりとりなど、掛け合い漫才のような勢いが若さと現代性なのだろうか。「河庄」は初めて見たので、やりとり自体は古典的なのか判断がつかないが、テンポとノリに今っぽさを感じておもしろかった。言い合いの間じっとしている壱太郎は次第に美しくなっていくように見えて不思議だった。お庄の菊三呂がそれらしく非常によかった。こういうお茶屋の女将のような役のおもしろさを教えてくれたのは秀太郎で、何気なくやっていて本当にその世界に生きているかのように見せるほどの良さとナチュラルさは、たぶん誰でも出せるものではないのだろうと思う。

「将門」は花道のスッポンからの出がよく、ただその後「そっこでせい」まではなんとなく意識が別の方を向いてしまった。演者には申し訳がない気がするものの、歌舞伎でも能でも落語でも映画でも、見ながら別のことを考えている時間があって、そのこと自体はそんなに悪くないと感じている。客席の椅子に座って舞台を眺めているときにしか現れてこない思考の中身もあるのではないかと思う。その後の立ち回りもやや長く、屋台崩しはセリが下がるのがゆっくりすぎて段取りにしか感じられずワクワクしなかった。屋根の端などの壊れ方が左右対称なのも趣がない。壱太郎の滝夜叉姫、隼人の光圀。壱太郎は最初の手紙を巻き直すところと、最後の旗を投げるところでちょっと思うようにいかなかった感じに見えた。こういうところも「芸」だがもちろん思う通りにいくときもいかないときもあり、それはそれで良いのだが、なんとなくそこで内側の「男」性というか、そういうものが見えて、でもある意味ではそれもおもしろさなのかもしれない。

とらやの売店で売っていた3つ入りのおはぎがどれもとてもおいしく、最高だった。つぶあんと、きなこにはなかにあんこも入っていて、さらにつやつやと輝くこしあんは黒糖の風味がした。ひとくちでちょうどの大きさもすてき。劇場の外に出ると雨に濡れた京都の繁華街に観光客があふれていた。