3月歌舞伎座昼の部「傾城道成寺」「元禄忠臣蔵」

時間の都合で幕見席で2幕のみ見た。事前予約制になってからは初めて行ったが、スマートフォンでアクセスしたとき、最初に表示される座席表のどこをタップしても次の画面では左端から表示されることに気づかず、思っていたのとはちょっと違う席を予約してしまった。高校や大学の頃に壁沿いの段の上に上がって立ち見で見ていたことを考えると、かなり異質なものに変貌している。建て替え後の歌舞伎座は4階でも舞台がちゃんと見え、予約して着席もできるとなると、座席がちょっと狭く膝がつっかえることをのぞいたらこれで十分なのではないかと思ってしまう。

三世雀右衛門追悼の「傾城道成寺」。道成寺物というのは、「あの歌詞知ってる」が別の世界のなかで現れることを楽しむものなのだろうか、と思いながら見た。娘道成寺のはなやかさなまめかしさに比べると、遊郭の一間にいる遊女という設定で進行することもあって空間の広がりという点で物足りなく、かつ前に帯を結んで大きな鬘で身動きも取れない感じなのだが、知っている歌詞を聞き取るとあの部分をこうやって生かしているのかというおもしろさがあった。本来というか元々の姿を知っているから味わえるものだと思う。踊りとしては娘道成寺のように見ていてワクワクするようなわかりやすいおもしろさはなく、ぼんやりと眺めた。動きの素早さや身体のリズム、その変化、引き抜きのような視覚的な効果、がないと物足りなく思ってしまう。本性を見現して髪を乱し姿を変えるところも、これくらいではこちらのテンションが上がりきらない。これはなにを見慣れているか、の問題でもあると思う。能であれば一足踏み出すだけで楽しめることもある。歌舞伎舞踊を見慣れていればおもしろさを見出せるのだろうと思った。雀右衛門は、首をやや前に出してシナを作るのが味がある。驚いたのは大谷友右衛門で、口調がフガフガしてしまってなにを言っているのかよくわからなかったので心配になってしまった。今回は三世雀右衛門の追悼で、その長男である友右衛門は、立女形となった弟雀右衛門と比べて扱いの差がはっきりとあって、そのことをどう捉えたらよいのか、観客としてはよくわからない。なにかの世界のなかで生きていくということのなかにはいろんな道がありさまざまな価値があることは大人になったらわかるが、外から見て勝手に悔しくなってしまうような気もした。菊五郎の存在感の大きさも印象的だったと同時に、その老いも衝撃であった。4階席からぼんやりと眺めるきらびやかな舞台の中にいろんな人生がちらちらした。舞台から見たら客席にいろんな人生がちらちらするのだろうか。

ロビーには三世雀右衛門の舞台写真が展示されていて、その舞台姿を自分も見たことがあるのがなんだか不思議に感じる。キャプションの年号を見てしばし驚いてみたりした。

「元禄忠臣蔵」の「御浜御殿綱豊卿」。かつて「望月」の装束の舞台写真を見てその写真だけで好きになった演目で、大口袴とオレンジ色の能装束に白い鬘とその上の扇という姿の美しさは発明だと思う。もちろん能からとった姿だが歌舞伎としてのこのビジュアルに子ども心に捕まえられてしまった。今回は仁左衛門の綱豊で、こういう機会は逃してはならないと思って多少無理して駆けつけた。以前見たのは当時の橋之助だったか梅玉だったか、3階の上手側の横の席で舞台がほとんど見えなかった。ただセリフだけを聞いていてもこの芝居のおもしろさがわかって、岩波文庫の「元禄忠臣蔵」を上下ともに買っていまも持っている。仁左衛門の綱豊は鷹揚で洒脱でとにかくこれはモテること間違いない。いい男である。しかも大名家の何不自由ない環境で真っ直ぐに育って屈託がない。それでいて頭はキレる。そういう存在として舞台上にいる。「わしはまだ銭というものを持ったことがない」というのは本当にそうだからそう言っているのであって、そこには全く嫌味がない。そういう人である。台詞がうまい。対する幸四郎の助右衛門はユーモアがあって、そこがうまい。敷居を入る入らないの言い争いで客席から何度か笑いが起きた。台詞回しが巧みで、自分がぼんやりしていた間に役者が名優になっていた、というやや思い上がった感想を持った。人生を重ねつつ日々舞台に上がって努力しているのだからうまくなって当たり前なのだが。梅枝のお喜世も美しく、座敷での論争を楽しく見たが、ただの印象論ではあるものの丁々発止という感じの楽しさではなかった。幸四郎のひとことでこんなに笑いが起きてしまって、緊迫感は薄かったように思った。やりとりのなかで政治の筋が見えてハッとする、その感覚を楽しみに行ったがその点ではすこしものたりなかった。しかし要所要所で笑いも起きるこの客席の千何百人の観客は皆この芝居の背景も筋もわかってみているのだろうかと思うと、自分の文化レベルを思い上がってはいけないと思う。最後能舞台の裏になると仁左衛門のセリフがなぜか失速してしまい、やや締まらなかったのが残念だった。台詞劇であるからして当然だが言葉の応酬とその表現の巧みさを楽しみ、仁左衛門の綱豊の「格」を楽しむ舞台だった。