3月歌舞伎座夜の部「伊勢音頭恋寝刃」

いつも一部分だけが上演される演目には理由があるのだと思う。芝居を見るとき、筋を追って見るのか、それとも瞬間瞬間の「味わい」のようなものの積み重なっていく様を見るのか、古典芸能として十分に成熟しさらにそのある意味排他的な特性によって役の後ろに役者が、役者の後ろにその系譜が浮かび上がってくる歌舞伎においては後者の楽しみ方が占める比重が大きい。もちろんその「味わい」のようなものは物語の筋のなかで成立しているものではあるし、例えば仮名手本忠臣蔵の六段目や七段目のように大きな歴史のなかでの個人の悲哀というような骨太なストーリーそのものが感動を呼ぶこともあるのだが、一部だけが上演される演目は物語全体の筋が物足りないからそういう結果になっているのであって、ちょっとやそっとの努力では目の前にある物足りなさという事実に対抗しきれないのではないか。

刀の折紙と刀そのものをめぐって、本当の折紙までも騙し取られてしまう場面は、「どういうメカニズムで騙されたのか」ということは納得できるようになっているものの、かわりに「どうしてこんな道端で」とか「どこまで事前に計画していたのか」とか「正しいものと間違ったものを重ねて渡したら危ないに決まっているのではないか」とか、よくわからない気がするポイントが次々に出てきてしまって、メカニズムがわかる分逆にモヤモヤする。こういうのを演劇評論家は「筋を通しただけ」というのだろうか、と思ったりした。

手に入れた手紙が読みたくて、夜が明けるのが待ち遠しくてじれているところに二見が浦で日が昇るところは舞台装置も含めてひとつ「味わい」が極まるところでもあり得ると思うのだが、前後で謎が多いのとたくさんあるシーンのうちのひとつになってしまっているのとで際立たない。

講中の人たちが集まるなかで金を盗んだ盗まないに至っては、そもそも話の筋もよくわからず、なんだかわからないがずっと揉めている、という印象になってしまった。ただ、これは筋書も買わずイヤフォンガイドも借りず、かといって事前に予習をしっかりして行ったわけでもない自分自身の責任でもある。そのなかで雀右衛門のお紺を「叔母」と言って場を切り抜けようとしたところに本物の叔母が来てしまいあたふたするあたりは役者そのものの魅力を感じた。高麗蔵の叔母も美しく格式を見せた。

ここまでのところで一番問題なのは幸四郎の貢と菊之助の万次郎が全体的に似すぎていて、キャラクターの違いがよくわからないことである。どちらもかっこいいし美しくしかも育ちが良さそうで、3階席から見ているとふたりがごちゃごちゃになってしまって、筋のわからなさに拍車をかけた。

油屋。魁春の万野がそんなに嫌味ではなく、別にこのくらいの人はいるよなぁと思ってしまったことで、貢がいらだっていく段階も見えづらかったように思った。弥十郎のお鹿は大河ドラマで名を上げたこともあり出てくるだけでご馳走の味わいで、しかもそれなりにかわいく見えて、話の筋とは違って嫌がるのもむしろかわいそうな気がしてしまった。

幸四郎菊之助も、雀右衛門魁春も、とても好きな役者である。その分かえって、「油屋」と「奥庭」に集中して全精力を傾けて見せてほしい、と思ってしまったのかもしれない。なんだかよくわからないなぁ、と思いながら眺める時間がどうしても長くなってしまったのは、物語の筋そのものの持つ力がいまひとつだということなのだろうと思う。

このほかに松緑と梅枝の「喜撰」。梅枝が古風な味わいで良かった。