悪は存在しない

悪は存在しない。それは本当だろうか。確かにこの映画のなかで誰かの悪意を感じる瞬間はない。誰もがそれぞれの立場で真っ直ぐで、まるっきり嫌なやつは存在しないように見える。しかし、悪は存在する。悪は存在しない、とわざわざいうのは、悪が存在するからであり、この世界のなかに悪が存在しないわけがない。雑にいえば、悪が存在するからこそ映画が存在するのではないか、とさえも思える。

冒頭から繰り返されるドリーショット。見上げた木の枝の細い一本一本までも、映画は映し出す。それが唐突に打ち切られて表示される黒い画面のクレジット。また見上げた木の枝のドリーショット。ラストにも再び、カメラは木々の枝々を映し出す。何を意味するのだろうか。

途中まで物語ではなく、「世界の感じ」を描き出そうとしているだけなのではないかと思うようなテンポでシーンが重なっていく。ときおり不穏に音楽とカットが唐突に終わり次のシーンへと向かう。その瞬間だけ心がざわつく。平穏な、美しい信州の自然も、そういえばなにかが不穏なのかも知れない。だって映画とは物語であり、ここで何かが起こることは確実なのであるから。

娘を追って歩く父親を横から捕らえたドリー。土地の起伏に遮られて、再び姿が見えたときには娘を肩車している。

鹿の水飲み場を映した、引きの画、アップ。鏡のような水面は何を映すのか。

そしてラスト。私にはその行動原理が、この心の動きがわからなかった。悪は存在しない、のか?

登場人物たちが汲みにいく「水」。「水は低いところへ流れる」ということば。ラストシーン近くに出てくる階段上に低い方へ流れていく水路。初め父が、そして娘が拾う鳥の羽。父娘が見る「半矢」の鹿の骨、「半矢の鹿は人を襲う」ということば。さまざまなモチーフがラストシーンに向かって用意されていくのはわかるが、ラストシーンの本質的な意味がわからないまま、もうすこし考えてみようと思う。